松山俘虜収容所
 ー日露戦争に於ける俘虜診療に関わったある医師のアルバムからー

陸軍軍医監菊地常三郎君

陸軍軍医の自費留学生第一号
(菊地の渡欧は明治十九年で、彼は途中二十二年から官費に切換えられた。)
東京医学校において鴎外と同級、その在学中から軍医生徒(陸軍の第一回依託学生)
日露戦争下の日本ーロシア軍人捕虜の妻の日記ー
ソフィア・フォン・タイル著
小木曽龍・小木曽美代子訳新人物往来社

1904年8月2日
..軍医長を紹介してくれたが、この軍医は眼鏡をかけた真面目な親切な人で
古い良い時代の日本の礼儀作法や、私がよく知っていた上流社会、
宮廷社会の丁重さ弁えた洗練された人柄だった。...

1904年8月6日
.....松山で言えば、収容所の軍医長がまさにそのタイプなのだ。
最高の日本人、生きている武士道精神であって、
満州ならぬこの松山で、慈悲深く、私たちのそばで見守っていてくれるのだ。
1904年10月25日
日本の軍医が行う外科手術は素晴らしいもので、
苦しんでいるロシア人に示される軍医たちの心遣いの深さは、
私にとってまさに理解を超えるものだった。
「汝を憎むものに親切であれ」
をみずから実行しているのだった。
軍医長は、この一兵卒にすぎないコサックを治療するに際して、
あたかも日本の上級将校に対するのと同じ接しかたをしているのだ。

1905年1月22日
.....軍医長が大連の大病院に転任を命ぜられたと知らせてくれた。...

1905年2月3日
...私たちの愛する老軍医長、言うならば騎士道の勇者、武士道の美しい花...
「老軍医長と乃木将軍だ。僕はヨーロッパの将軍や紳士たちの中で、この二人を
第一位に据えるよ。...乃木将軍と菊地前軍医長だけが四千万人の救い主だよ。」
というのが、捕虜の将校たちの意見なのだ。